貨車銘板研究室−017 汽車製造→(川崎重工) 昭和四年 汽車製造會社 東京支店 (秩父鉄道ホキ10形11) |
2002/6/15 作成 |
■社名・工場の変遷
■ 昭和四年 汽車製造會社 東京支店 写真96 汽車會社東京支店は,わが国の鉄道車輌メーカーの黎明期に名を残した平岡工場が前身である。平岡工場は,明治23年に鉄道局の技師だった平岡煕氏の賛助を得て創立された。当初,小石川区の東京砲兵工廠の鍛・木・鋳の3工場を借用し,陸軍向けの兵器製造を開始,明治27.28年の日清戦争では全工場を上げて兵器製造に従事したといわれている。また,平岡工場は黎明期に存在した客貨車製造の民間メーカーでは最大手(当時機関車は全て輸入に頼っていた)で,鉄道勃興期の当時,日本鉄道を初め全国から大口の注文があり,相当な利益を出した好調な経営であった。 しかし,平岡工場の創業者である平岡煕氏が汽車會社の副社長として迎えられたことで,平岡工場と汽車会社の経営を一本化する事になり,明治34年に汽車製造會社と合併した。平岡工場は,汽車製造合資会社東京支店となった。汽車會社発祥の地である大阪本店では機関車の製造を主とし,東京支店では平岡工場時代から実績のある客貨車の製造を主とした。このため,東京支店の貨車銘板は楕円銘板が制定される前から存在していた。 昭和四年に製作された,この銘板は貨車は珍しい長方形をしていた。表示も,汽車製造會社と「製造」の文字まで入っていた。 この銘板は秩父鉄道ホキ10形11のものである。ホキ11は昭和43年に日車で,鉱石車ヲキフ1形13を保線用の砂利散布車に改造したもので,種車であるヲキ13形の新製銘板が写真96なのである。 ヲキフ1形とは,秩父鉄道創業に合わせて大正14年に汽車で新製された鉱石車ヲキ1系の緩急車で昭和4年に6輌が新製された。現在のヲキ100形,ヲキフ100形の元祖となった車輌たちである。車種は鉱石車であるが,実質は石灰石専用ホッパ車である。ヲキ1形,ヲキフ1形の構造は,底開き式のヲキ100形,ヲキフ100形と異なり,流し板付の側開き構造であった。 ホキ10形への改造では,種車の上廻りを撤去し,残った台枠以下にホッパと操作室を新設する大規模なものであった。写真に見える操作室の床から立っている円錐形のものは,手ブレーキで,種車のものをそのまま使用していた。台車はTR20である。 なかなか,格好いいスタイルで有ったが,砂利散布車の近代化と大型化のため,東武鉄道から国鉄ホキ800形と同型車を購入し,平成元年3月31日付けで廃車され,形式消滅した。
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汽車の銘板 昭和24年 汽車會社 大阪製作所 タム4000形4027 昭和34年 汽車會社 大阪 昭和4年 汽車製造會社 東京支店 秩父鉄道ホキ10形11 昭和17年 汽車會社 東京工場 タム100形118 昭和25年 汽車會社 東京製作所 昭和36年 汽車會社 東京 タキ1500形15265 昭和43年 汽車會社 宇都宮
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