吉岡心平のマーク

タ1形25

私有貨車

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タ300形

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特別編601
特別編603

積荷
●構造

入口


 タンク車を語る際、いの一番に出てくるのは「タ1形」だが、今回はその中でも私有貨車のトップナンバーを取り上げる。

 タ1形は昭和3年の改番で7トン積タンク車(専用種別なし・石油系汎用)を纏めた形式である。創始期の石油タンク車は5〜10トン積と様々なサイズがあったが、私鉄割拠時代は有蓋車・無蓋車でさえ千差万別だったから無理からぬことであった。
 その後、鉄道国有化・増トン工事・自連改造などを経て、5〜7トン級の小型車は7トン積に統一された。これらがタ1形の原資だが、タ1〜24には国鉄貨車が割り当てられたため、私有貨車はタ25から始まる事になったのである。

 創始期のタンク車を見る際、撮影された時代の見極めが重要だ。何故なら台枠・車軸などの枢要部も後天的改造の対象となっていたからだ。今回は写真は戦後の撮影で、台枠など大きく改造されている。
 タンク体は鋲接で、小形のドームや吐出弁ハンドルの作りから、落成時のままと思われる。一方、タンク固定では2本の帯金が見えるが、受台廻りは後天的改造によるものだ。
 台枠は自動連結器を装備する際に改造されたもので、側梁以外は新製されたものと思われるが、中梁周辺の構造は良く判らない。ブレーキは側ブレーキだけで、貫通ブレーキは装備せずに終わった。軸距は3,048mm(10フィート)、走り装置はシュー式であった。

 本車の車歴は複雑にして難解である。明治39年に「中村文治」で製作とされるが詳細は不明である。その後、小倉常吉所有となったようで、明治44年7月の改番時点では小倉常吉の「中5」から、ア1601初代形の1605初代となった。大正3年7月には日本石油KKに貸渡されたが、その際は「中野忠太郎より借入」とされていた。
 大正4年7月に中野鉱業部に移籍した際、当時は所有社毎に形式番号を分けていたため、ア1545形1550に改番された。同社は同年12月に株式会社となり中野興業KKとなった。大正7年3月に常備駅制度が定められ、本車は新津が受授駅(甲号契約車ため常備でなく受授)となった。同年5月には契約が乙号に変更されたため新津駅常備となった。
 昭和3年の改番後は昭和5年2月に羽後平沢、昭和8年12月に新津及び矢代田、昭和9年6月に羽後平沢、昭和9年7月に石地と変遷した。昭和18年4月に国産原油の一元化のため帝国石油KKが設立されたため、石地駅常備のまま同社所有となった。その後、同社の輸送部門分離や社名変更で、社名は昭和20年1月に共同企業KK、昭和21年4月に日本原油輸送KK、昭和23年3月に日本石油運送KKとなった。
 昭和21年6月には専用種別が「種別なし」から「石油類」に変更されている。昭和24年10月には常備駅が平木田に変わった。昭和30年代に入ると、老朽車淘汰の流れに乗って、タ1形は形式廃車の対象となり、本車も昭和31年10月に、同僚と一緒に35両廃車となった


タ1形25の写真

【写真1602】 タ1形25 P:吉岡心平所蔵


【特別編602】050622作成R4A、070715R4A2、070916R4A2、081001R4BY、100721R4B。