貨車銘板研究室−023

市川重工業

1950年 市川重工業株式会社 IHI (タム3250形3273)

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2002/8/13 作成

社名・工場の変遷

昭和11年

設立

日本機械車輌工業(株) (後の蒲田工場)
昭和14年 工場新設 市川工場 新設
  戦災で蒲田工場及び羽田分工場を焼失
昭和19年 改称 市川工場を,市川重工業(株)に改称
昭和25年 改称 旭重工業(株)に改称
廃業  

■ 1950年 市川重工業 IHI 写真119               P:吉岡心平

【吉岡心平さんから貴重な写真を提供して頂きました】

 前々から市川重工業製のタンク車タム3272,3273のことが気になっており,吉岡さんにこのこと話したら,心地よく銘板とタム3273の写真をお借りすることができました。さらに,タム578の写真を提供下さいました大先輩の堀井さん,いつも感謝しております。

 市川重工業を初めて知ったのは,蒸気機関車のバイブル「機関車の系譜図−3 62章隠れたる群雄[13]日本機械車輌工業・市川重工業」である。この第3巻は,国産蒸気機関車メーカーを全てを解説したもので,蒸気機関車ファンならずとも車輌研究者のバイブルとなる書籍である。

 市川重工業(株)の系譜は表のとおりで,戦争末期の昭和19年に,日本車輌機械工業(株)から改称された。日本車輌機械工業(株)は鎌田工場,羽田分工場,市川工場の3工場で操業していたが,この内市川工場を継承したものと考えられる。なお,鎌田工場,羽田分工場は戦災により壊滅した。実質的な再建は戦後になってからと推測され,蒸気機関車の修繕などを行っていた。昭和25年には旭重工業(株)改称するが,これも結局は閉鎖している。

 市川重工業の銘板は見るからに勇ましく,上段にIHI(石川島播磨重工業では無い),中段にフルネームで「市川重工業株式会社」,下段に西暦で1950−4と刻印されている。この当時,貨車用銘板で西暦表示,それも刻印とは珍しく,まさに,珍品の一つである。昭和25年4月ということは,市川重工業末期の製造となる。

 昭和22年から25年は,戦災廃車された国鉄貨車の下回りを利用して安価にタンク車を製造する,戦災復旧車の大ブームで,2大メーカーの東洋レーヨン東洋機械製作所や,呉羽化学錦工場を初め,カテツ交通,東京電機車輌,日本鋼管などの珍メーカーが存在した時期であった。

 市川重工製のタム3250形3273と,昭和12年日車製タム500形578を見比べていただきたい。全体の印象をはじめ,ターンバックルを使用した締金や受台の形状がそっくりなのである。当初,タム578と同時期に製造された日車製の戦災復旧車がタム3273に生まれ変わったものと思ってしまった。それも,市川重工業などというタンク車として名も無いメーカーの作品であるため,てっきり戦災復旧車であると思いこんでしまった。しかしである。鉄道公報などの公式資料を調べてゆくと,戦前日車製のタム500形で戦災廃車となったものは無いのである。

 真実は,新製車であったのである。確かに細部を見てゆくと,鏡板やドームの形状などは明らかに異なっている。たぶん日車製のタム500形をモチーフに製造したものと推測される。それにしても,車体中央部の台枠上におかれた運転関係標記板に書かれた記号・番号,一枚板から切り抜いたような側ブレーキテコ軸受,鏡板から飛び出した加熱管接続口など,タンク車の流儀を無視した作りとなっおり,これがマニアの心を擽るのである。

 一説には5輌製造されたとの情報もあるが,実際に車籍編入されたのはタム3272,3273の2輌で,当初の所有者は安宅産業(株),常備駅は3272が八幡,3273が飾磨であった。3272はその後,西戸畑,上戸畑,飾磨へと,3273は上戸畑へと異動した。ヨンサントオでは,2輌とも2段リンク改造を受けている。昭和51年に3272が昭和52年には3273が車籍除外され,歴史の中に消えていった。

写真120 タム3250形3273

P:吉岡心平

【吉岡さんから貴重な写真を提供して頂きました】

写真121 タム500形578

 昭和44年4月5日 高島 P:堀井純一

【堀井さんから貴重な写真を提供して頂きました】

修正

2002/9/3

  梶山様からご教授頂き,市川重工業改称年を明記し,本文を修正しました。

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